どうでもいい話題も、図にすればなぜか深く見えてくる。
この番組は頭の体操、時々悪ノリ。見えるようで見えない構造をスッキリ整理する、そんな図解系ラジオです。
生まれながらに「勝ち組」と見られる条件は、すべてそろっていた。
名家の血筋、海外経験、名門校。
けれど本人の実感は、常にその外側にあった。
今回は、幼稚園受験という最初の成功体験を起点に、
期待と評価の中で「自分」を探し続けた山本純平の幼少期から学生時代をお話します。
第1章:恵まれた生い立ちと幼少期の栄光
1987年3月27日生まれ。
山本純平は、いわゆる“恵まれた家系”に生まれた。
山本海苔店副会長、岡田屋モアーズ会長──その両家の孫。
生後半年でアメリカ・ロサンゼルスへ渡り、4歳半で帰国した「隠れ帰国子女」。
とはいえ英語は話せませんし、「ロス育ちです」と言っても「どの辺?」と聞かれ、「改札出て右かな」と答えて場を凍らせてきました。
そんな僕の人生最大の成功体験は、意外にも幼稚園受験にあります。
森村学園の小学校受験で問われた「太陽と月の共通点は?」
という質問に僕は
「最後に“N”がつく」
Moon と Sun。
この機転の効いた回答は、今なお家族の中で語り継がれる伝説だ。
僕は今もその栄光を追いかけています。
この一言に象徴されるように、僕の人生は早くも“期待”と“評価”に包まれて始まりました。
その代償として、小学4年生からは家庭教師2人・塾2つの週7日勉強生活が始まり、ランドセルを放り出して公園で遊ぶ──そんな「普通の小学生像」は、憧れのままでした。
第2章:慶應中高時代の挫折とコンプレックス
努力の末に慶應中等部へ進学。
ただ、ここから違和感が強くなっていきました。
中学1年時の身長は138cm。
学年最年少の3月生まれという身体的ハンデもあり、スポーツでは常に不利な立場でした。そこで選んだのは、競技人口の少ないフェンシング。
その後もフィギュアスケート、ヨット、ウィンドサーフィンと、どこか“王道から外れた競技”を渡り歩きました。
一方で、周囲からは「慶應ボーイ」として持ち上げられる。
でも、校内では、勉強が特別できるわけでもなく、常に優秀な同級生に囲まれて「平均点を取るのがやっと」の自分がいました。
外から見た華やかさと、内側の実感とのズレ。
そして「目立たないように生きる」「少数の友人とだけ関わる」という内向的な学生生活を送りました。
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス進学後
ヨット部に所属するも、毎週の合宿と過酷な練習で心身を消耗し、1年間耐えた末、号泣しながら退部を申し出ました。
第3章:大学院での孤独な研究と個人への目覚め
大学2年から所属したIT系ゼミで、あるテーマに出会います。
「雰囲気のデジタル化」
日本人が重視する「空気」「雰囲気」をデータ化し、空気を読むロボットを作れないか──。
海外には類似概念すらなく、先行研究もほぼゼロという孤独な戦い。
僕はこの前例のないテーマに、学部から大学院まで4年間向き合い続けました。
実験は失敗続き。
卒論・修論のたびに落ち込み、何度も自信を失う。
そんな中、指導教員からかけられた言葉があります。
「他の同期と比べて、比にならないほど難しいテーマなんだから、簡単にうまくいくわけがない」
修士論文発表では、なぜか最後の“トリ”を任され、質問が止まらない発表となりました。
それは、興味を持ってもらえた証拠だと思っています。
この研究生活を通じて、自分はずっと慶應というブランドの中で生き、苦しんできたのだと思いました。
「金持ち」「チャラい」
そんな外部イメージと、自分の実感のギャップ。
だからこそ思う。
ブランドではなく、個人で評価されたい。
山本純平として勝負したい。
名門の看板を背負いながらも、成功体験は慶應合格くらいでした。
恵まれた環境の中で感じ続けた違和感は、“エリート街道”とは異なる選択へ向かいました。
次回は社会人編へ
山本海苔店副会長と岡田屋モアーズ会長の孫として生まれ、幼稚園受験での機転の利いた回答が人生のピーク。
学生時代は、意外にも挫折と苦悩の連続。
慶應という名門ブランドの重圧に苦しみ、体格的ハンデから一般的なスポーツを諦め、競技人口の少ないフェンシングやヨットに逃避。
大学院では前例のない「雰囲気のデジタル化」研究に4年間孤独に取り組み、ようやく「個人で評価されたい」という強い決意を抱くに至った。
でも僕の物語はここからが本番。
名門の看板を背負いながらも、成功体験は慶應合格ぐらい。
どのようにして個人の名前で勝負できる道を見つけていくのか。
エリート街道から一転、フリーター生活を選んだ衝撃の理由。
次回は社会人編をお届けします。